日記
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2月2日です。実に感慨深いものがあります。丁度一年前にこのサイトを始めて、今日で一周年なわけです。なんとも早かったような遅かったような微妙な心持です。SSを始めて書いたのは1年半前くらいなんですけどね。初めてのSSは時空間移動様のところで書かせていただいて、というかまだそこで書いてたの完結してないんですけどとにかく書かせてもらっていて。だけどやっぱり自分の好きな作品について自由になんでもやってみたいということでこのサイトをつくりました。気付いている人は気付いているんでしょうが、このサイトはタグ打ちでつくられています。しかも私自身HTML何それ的なド素人だったので、それはもう当初はヒドいものでした(今もですが)。それが色々やってるうちに小説も増えたしノベルゲームも創ることができてよくもまあここまでやってこれたなとつくづく思っている今日この頃です。最初は確かサーバーもfc2ではなくてtokだったと思います。広告がうざかったので速攻で変えましたが。いやでも本当に色々ありましたこの一年。これからも何か新しいものに挑戦したり今書いてる小説もちゃんと完結させたいなと思います。それではいつものように脈絡がなくなったところで終わりです。これからもよろしくお願い致します。
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あれやこれやがようやく終わってくれて、ようやく一日まるごと休みがとれたので秋葉原に出張し、買ってきましたFate/zeroの4巻を。それでさきほど読み終わり、今だに興奮冷めやらぬままに感想を書きなぐりたいという欲求に駆られ、現在に至っています。尚、以下では惜しげもなく4巻についてのネタばれが含まれているので、未読の方はこれ以上読まないで下さい。いくら結末が分かりきっているとはいえ、こんな排斥物にも似た駄文でFate/zeroの世界を味わうことはありません。先入観とか非常に手ごわいものもあることですし、まずはご自分の目で一読されることをお勧めします。
ではまず結論として「面白かった」この一言に尽きると思います。完結した今だからいえることなのですが、ZEROの1巻を読んだとき、あまりの話の進まない展開に、いい印象を受けなかったのを今でも思い出します。虚淵という作家の文章を味わうのが初めてだということもあったのでしょうが、紡がれる文章も最大公約数というか何かの解説書を読むかのようで味気ないと思ったほどでした。言うなれば夏目漱石。日本語の手本となるような明瞭にして綺麗な文章だと思ったのですが何か無機質なものを感じてしまい、うまく物語りに乗れなかったのです。ただ単に私がバカだったんでしょう。読解力の欠如と漢字への無知が、上述した感想を抱くに至った原因だったのだと、今にしてみれば思います。
と、そんな物語の埒外になることはさておき、その内容です。もはや私が語るまでもないと思うのでその内容について語りませんが、私の中でのZeroとはひとえに衛宮切嗣の正義への渇望がどのように描かれるのかということでした。正義という誰にでも一家訓を持っているような面倒くさいものを題材にした作品。そこで出される回答とはなんなのだろうと、自分の中でのメインテーマとして注目していました。結局、切嗣の正義は正義の形をつくることなく泡とかしたわけですが、最後に切嗣が言った言葉、「アレがもたらすモノよりも、アレが犠牲にするモノの方が重い。――――ただ、それだけの話だ」という言葉に切嗣のその答えに対する苦悶が顕著に現れていると思います。功利主義でしか己の正義を定義づけられなかった衛宮切嗣。自身では思い至らなかった正義への道のりを、聖杯に求めたというのは、なかなかどうして興味深いものがありました。その理想を半ば聖杯に丸投げした形。それに対する回答は作中のアイリスフィールを媒介にした聖杯の言葉「キミが識りもしない方法を、キミの願望に含めるわけにはいかない。キミが世界の救済を願うなら、それはキミが識る方法によって実現されるしかない」。それが真実かな、と。私がZeroのメインテーマだと据えた「正義とは何か」という答えではないかとそう思いました。つまり、それを知りたいんなら誰かに教えてもらおうとせずに自分自身で悩めタコ。というなんとも明白な答えです。自分の中にない方法を理想の実現に用いることはできない。なんという不具。力のなさ。聖杯ですらそうなのですから、他もまたしかりというのは自明の理なのではないかな、とか。
と、以上が争点整理としての感想でして、もはやこれだけでこの日記の役目は終わったも同然なのですが総括としての感想をば。
Fate/zeroの物語の中に希望なんてサラサラなかったわけですが、少なくとも聖杯戦争に参加した魔術師とサーヴァントにとっては救いのあった話だったと私は思います。結果なんて俯瞰者としてはどうでもよく、そこに至るまでの過程こそが大事だと思うのですが、皆自分の欲望に忠実に動いて、その結果がアレだったということに私はまぎれもない救いがあったのではないかと思うのです。どんな結果になったとしても「動けた」という事実そのものこそが何よりの救いなのではないかな、と。少なくとも救いへのチャンスがあって己の欲望のために動けたのですから、それは救い以外の何物でもないのではないかなと思うのですが……いやでもこれは当事者としての救いではなくて読み手としての救いなのかもしれませんね、うんきっとそうだ。ちゃんちゃん。
ではまず結論として「面白かった」この一言に尽きると思います。完結した今だからいえることなのですが、ZEROの1巻を読んだとき、あまりの話の進まない展開に、いい印象を受けなかったのを今でも思い出します。虚淵という作家の文章を味わうのが初めてだということもあったのでしょうが、紡がれる文章も最大公約数というか何かの解説書を読むかのようで味気ないと思ったほどでした。言うなれば夏目漱石。日本語の手本となるような明瞭にして綺麗な文章だと思ったのですが何か無機質なものを感じてしまい、うまく物語りに乗れなかったのです。ただ単に私がバカだったんでしょう。読解力の欠如と漢字への無知が、上述した感想を抱くに至った原因だったのだと、今にしてみれば思います。
と、そんな物語の埒外になることはさておき、その内容です。もはや私が語るまでもないと思うのでその内容について語りませんが、私の中でのZeroとはひとえに衛宮切嗣の正義への渇望がどのように描かれるのかということでした。正義という誰にでも一家訓を持っているような面倒くさいものを題材にした作品。そこで出される回答とはなんなのだろうと、自分の中でのメインテーマとして注目していました。結局、切嗣の正義は正義の形をつくることなく泡とかしたわけですが、最後に切嗣が言った言葉、「アレがもたらすモノよりも、アレが犠牲にするモノの方が重い。――――ただ、それだけの話だ」という言葉に切嗣のその答えに対する苦悶が顕著に現れていると思います。功利主義でしか己の正義を定義づけられなかった衛宮切嗣。自身では思い至らなかった正義への道のりを、聖杯に求めたというのは、なかなかどうして興味深いものがありました。その理想を半ば聖杯に丸投げした形。それに対する回答は作中のアイリスフィールを媒介にした聖杯の言葉「キミが識りもしない方法を、キミの願望に含めるわけにはいかない。キミが世界の救済を願うなら、それはキミが識る方法によって実現されるしかない」。それが真実かな、と。私がZeroのメインテーマだと据えた「正義とは何か」という答えではないかとそう思いました。つまり、それを知りたいんなら誰かに教えてもらおうとせずに自分自身で悩めタコ。というなんとも明白な答えです。自分の中にない方法を理想の実現に用いることはできない。なんという不具。力のなさ。聖杯ですらそうなのですから、他もまたしかりというのは自明の理なのではないかな、とか。
と、以上が争点整理としての感想でして、もはやこれだけでこの日記の役目は終わったも同然なのですが総括としての感想をば。
Fate/zeroの物語の中に希望なんてサラサラなかったわけですが、少なくとも聖杯戦争に参加した魔術師とサーヴァントにとっては救いのあった話だったと私は思います。結果なんて俯瞰者としてはどうでもよく、そこに至るまでの過程こそが大事だと思うのですが、皆自分の欲望に忠実に動いて、その結果がアレだったということに私はまぎれもない救いがあったのではないかと思うのです。どんな結果になったとしても「動けた」という事実そのものこそが何よりの救いなのではないかな、と。少なくとも救いへのチャンスがあって己の欲望のために動けたのですから、それは救い以外の何物でもないのではないかなと思うのですが……いやでもこれは当事者としての救いではなくて読み手としての救いなのかもしれませんね、うんきっとそうだ。ちゃんちゃん。
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