日記
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また一つ名作が終わってしまいましたね。いやはや、残念な限りです。
このたび、竹宮ゆゆこ先生のとらドラ!が最終巻をむかえたわけですが、やはりこの人の書く小説はもう最初から最後までおかしいくらいなまでのネタ満載で、とても素晴らしいものがありました。
普通、中だるみしますよねラブコメとか。それか、何故かよく分からない新キャラがいきなり登場して場を持たせるというか、もうネタがないからとりあえず登場人物増やしとくかみたいな「ちょっとちょっと」という展開になるのが普通のラブコメ。長くなるにつれて、避けることのない運命なのでしょうが……
とらドラ!はまったく違うと。つまりはそういうわけなんでしょう。亜美の登場はありましたが、あれは「途中から登場させる」必要があるキラで、事情は違うと思います。こんなふうに、最初からプロットきまっててキャラクターを破壊しないで話を進めていくというのは、このごろ見ないようなラブコメでした。
これまた自論になるのですが、小説って、「物語」を優先するのか「キャラクター」を優先するのかっていうバランスがけっこう難しいと思うんです。
ラノベというのは、一般の小説とは違って、この「キャラクター」に対する比重が、「物語」に対する比重よりも高いと思うんですよ。
東野圭吾とか今をときめく売れっ子作家の書く小説とは、まずテーマありきで物語優先。キャラクターが動くというよりは、物語にあわせてキャラクターをうごかす。ここにはおのずと、原作者にキャラクター破壊がおこります。物語を進めるために、なんだかキャラクターが喋っているというよりは、作者が喋っている。物語を進めるためだけにキャラクターが動く。まさに作者の定めたテーマを体現するための操り人形にキャラクターがなってしまうんだと思うんです。
別に、これが悪いということではなくて、キャラクターよりも物語に比重が置かれているというだけのことなのでしょうが、ダメなのは、最初はキャラクター小説で、けっこうクセのあるというか個性的なキャラクターが、物語を進めるためだけに、らしくない行動や言動をするという現象でしょう。
そしてこの現象が、最近のラノベ界というかラブコメ界におおくなってきているんじゃないかなーとそう思うわけです。
しかし、
しかし、とらドラ!はそうじゃない。キャラクターの設定が最後まで生きている。とらドラ最終巻で、竜児が自分の家に帰ったあとで、絶望的なその状況下で自分の家を掃除する場面なんて、そのいい例だと思います。
あの「掃除をする」という記号を最後まで生かしながら、それでいてそのキャラクターの個性をとおして、主人公の心情を描いた。最後の覚悟を決めるのに必要なワンクッションを「掃除をする」ということをとおして描ききった。これはすごいことです。
こんな展開、自分には当然かけません。当たり前なのでしょうが書けるわけない。誰にもかけるわけがない。普通は、なんだかよくわからないうちにキャラが訳もわからず悟りを開いたかのような非現実的な覚悟を決めるという「読者置き去り状態」が生じるのが常なのではないでしょうか。
しかしとらドラ!は最後までキャラクターを物語を動かすための操り人形にすることなく、最初のキャラクター小説としての側面を貫きとおしたわけです。
うん、すばらしい。なんかこの言い方は実に偉そうですが、本当にすごい。とらドラ!はまさしく名作です。
……しかし、本当に終わってしまうんですね。ぶっちゃけ、私としてはもっと続けてもいいんじゃないかというか、もっと続けるだけのネタもエネルギーもまだまだこの「とらドラ!」という作品には残っていると思うんですが……うーん、しかし、やはりこのタイミングで幕を引くのがいいんですかね?
だって、普通はこのタイミングに終わりませんよ。アニメが大ヒットして、作品として絶頂にあって、単行本も売れまくっているというのに最終巻にしてしまうというのは、作家さんの作品に対する真摯な気持ちがここからもうかがい知れることができます。
そして、よく編集も許可をだしましたね。その意味で電撃文庫のふところもやはり広くてすばらしい出版社なのでしょう。
なんか色々書きましたが、とにかく「とらドラ!」はすばらしかった。竹宮先生には次回作をはげしく期待です。
……しかし、寂しくなるな~。
このたび、竹宮ゆゆこ先生のとらドラ!が最終巻をむかえたわけですが、やはりこの人の書く小説はもう最初から最後までおかしいくらいなまでのネタ満載で、とても素晴らしいものがありました。
普通、中だるみしますよねラブコメとか。それか、何故かよく分からない新キャラがいきなり登場して場を持たせるというか、もうネタがないからとりあえず登場人物増やしとくかみたいな「ちょっとちょっと」という展開になるのが普通のラブコメ。長くなるにつれて、避けることのない運命なのでしょうが……
とらドラ!はまったく違うと。つまりはそういうわけなんでしょう。亜美の登場はありましたが、あれは「途中から登場させる」必要があるキラで、事情は違うと思います。こんなふうに、最初からプロットきまっててキャラクターを破壊しないで話を進めていくというのは、このごろ見ないようなラブコメでした。
これまた自論になるのですが、小説って、「物語」を優先するのか「キャラクター」を優先するのかっていうバランスがけっこう難しいと思うんです。
ラノベというのは、一般の小説とは違って、この「キャラクター」に対する比重が、「物語」に対する比重よりも高いと思うんですよ。
東野圭吾とか今をときめく売れっ子作家の書く小説とは、まずテーマありきで物語優先。キャラクターが動くというよりは、物語にあわせてキャラクターをうごかす。ここにはおのずと、原作者にキャラクター破壊がおこります。物語を進めるために、なんだかキャラクターが喋っているというよりは、作者が喋っている。物語を進めるためだけにキャラクターが動く。まさに作者の定めたテーマを体現するための操り人形にキャラクターがなってしまうんだと思うんです。
別に、これが悪いということではなくて、キャラクターよりも物語に比重が置かれているというだけのことなのでしょうが、ダメなのは、最初はキャラクター小説で、けっこうクセのあるというか個性的なキャラクターが、物語を進めるためだけに、らしくない行動や言動をするという現象でしょう。
そしてこの現象が、最近のラノベ界というかラブコメ界におおくなってきているんじゃないかなーとそう思うわけです。
しかし、
しかし、とらドラ!はそうじゃない。キャラクターの設定が最後まで生きている。とらドラ最終巻で、竜児が自分の家に帰ったあとで、絶望的なその状況下で自分の家を掃除する場面なんて、そのいい例だと思います。
あの「掃除をする」という記号を最後まで生かしながら、それでいてそのキャラクターの個性をとおして、主人公の心情を描いた。最後の覚悟を決めるのに必要なワンクッションを「掃除をする」ということをとおして描ききった。これはすごいことです。
こんな展開、自分には当然かけません。当たり前なのでしょうが書けるわけない。誰にもかけるわけがない。普通は、なんだかよくわからないうちにキャラが訳もわからず悟りを開いたかのような非現実的な覚悟を決めるという「読者置き去り状態」が生じるのが常なのではないでしょうか。
しかしとらドラ!は最後までキャラクターを物語を動かすための操り人形にすることなく、最初のキャラクター小説としての側面を貫きとおしたわけです。
うん、すばらしい。なんかこの言い方は実に偉そうですが、本当にすごい。とらドラ!はまさしく名作です。
……しかし、本当に終わってしまうんですね。ぶっちゃけ、私としてはもっと続けてもいいんじゃないかというか、もっと続けるだけのネタもエネルギーもまだまだこの「とらドラ!」という作品には残っていると思うんですが……うーん、しかし、やはりこのタイミングで幕を引くのがいいんですかね?
だって、普通はこのタイミングに終わりませんよ。アニメが大ヒットして、作品として絶頂にあって、単行本も売れまくっているというのに最終巻にしてしまうというのは、作家さんの作品に対する真摯な気持ちがここからもうかがい知れることができます。
そして、よく編集も許可をだしましたね。その意味で電撃文庫のふところもやはり広くてすばらしい出版社なのでしょう。
なんか色々書きましたが、とにかく「とらドラ!」はすばらしかった。竹宮先生には次回作をはげしく期待です。
……しかし、寂しくなるな~。
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