日記
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確かにですよ?
確かに、何かを主張するということはとても素晴らしいものだと思います。
しょせん、自分自身の価値観というのはたかがしれていて、他人の尺度を自分の中にとりいれることによって、なんとかかんとか面白おかしい人生をおくることができるのでしょう。
しかしです。
しかし、どこか”主張”には傲慢な側面が見え隠れすると思うのです。
ここでいう主張というのは、千差万別で、学術論文にのるような高慢ちきなやつから、居酒屋でかってしったる知人に一席ぶつのも含めて、ありとあらゆる言論活動がふくまれます。
政治やら世界平和やら。
文学やらアニメやら。
現実的ではない二次元ラブな物語でさえも
その題材がなんであろうと、何かを主張するということは、とても傲慢なことだと、私はそう思うのです。
で、これはなんでかなー。
なんでこんなに人の発した情報だとか物語だとかに傲慢な面を感じるのかなーと思うと、一つの結論に達するのだと思います。
ずばり、それ自体が目的ではないから。
そういう考えが成り立つのではないかと、私はそう思いました。
主張すること、表現すること―――それ自体が目的ではないわけです。
人がなんか言うときとか、主張やら表現する場合には、それ自体が目的なのではなく、単なる手段にすぎないんじゃないかなーと思うのです。
たとえば、自己満足。
たとえば、こんなに俺は頭いいんだぞー、という優越感を感じるため。
それよりも何よりも、商業作品だったら当然のように「金」ですよね。
そういう目的があって、そのために主張する、表現する。
ということは、主張・表現それ自体が目的ではないわけです。
どんなに色々なことを言おうと、どれだけすばらしい表現活動が行われようと、
ほとんどの場合にそれは、何かの手段でしかない。
それ自体が目的になってない。
いや、でもこれは当たり前のことです。
主張っていうのは目的があってやるべきだし、何か伝えたいことがあるからこそ、小説でも絵でも音楽でも発表するのでしょう。
だから、本来ならこんなこと、「これは傲慢である」なんていう必要はないどころか、意味不明でもあります。
しかし、私は納得いかない。
つきつめれば、単にそれだけのことなんですよね。
自分自身、私が納得できないだけ。
読み直してみると話しは脱線しまくりで、何いってるのか分からなくなってきたのですが、でも納得いかないんですよ。
主張やら表現やらが、それ自体目的ではなく、他の設定された目的のための手段として利用されているというのが、
とてもとても、
もう耐えられないような、
そんな中二病まんさいな、
耳を塞ぎたくなるというか、
もう分かったから黙っていてくれとでも言いたくなるような、
そんな感じに納得いかないんです。
ええ、ただ自分自身が納得できないだけなんです。
というよく分からないお話でした。
そして、こうして主張することこそ傲慢なんです。
きっと、こうやって主張するというただそれだけのために、このブログを書いたわけじゃないんです。
どうせ、さっき書いた優越感とか、
なんか発表することに対する快感とか、
とても気持ち悪い、なんか自分自身を特別なものにみせるという目的のためにコレを利用しているだけなんです。
と、先回りして突っ込むことが、傲慢なんです。
と、言ってしまうことが傲慢なんです。
と、何回も書いていくのが傲慢なんですと書いたことが傲慢なんです
はい。終わりにしましょう。
はい。
はい。
はい。
ちゃんちゃん。
確かに、何かを主張するということはとても素晴らしいものだと思います。
しょせん、自分自身の価値観というのはたかがしれていて、他人の尺度を自分の中にとりいれることによって、なんとかかんとか面白おかしい人生をおくることができるのでしょう。
しかしです。
しかし、どこか”主張”には傲慢な側面が見え隠れすると思うのです。
ここでいう主張というのは、千差万別で、学術論文にのるような高慢ちきなやつから、居酒屋でかってしったる知人に一席ぶつのも含めて、ありとあらゆる言論活動がふくまれます。
政治やら世界平和やら。
文学やらアニメやら。
現実的ではない二次元ラブな物語でさえも
その題材がなんであろうと、何かを主張するということは、とても傲慢なことだと、私はそう思うのです。
で、これはなんでかなー。
なんでこんなに人の発した情報だとか物語だとかに傲慢な面を感じるのかなーと思うと、一つの結論に達するのだと思います。
ずばり、それ自体が目的ではないから。
そういう考えが成り立つのではないかと、私はそう思いました。
主張すること、表現すること―――それ自体が目的ではないわけです。
人がなんか言うときとか、主張やら表現する場合には、それ自体が目的なのではなく、単なる手段にすぎないんじゃないかなーと思うのです。
たとえば、自己満足。
たとえば、こんなに俺は頭いいんだぞー、という優越感を感じるため。
それよりも何よりも、商業作品だったら当然のように「金」ですよね。
そういう目的があって、そのために主張する、表現する。
ということは、主張・表現それ自体が目的ではないわけです。
どんなに色々なことを言おうと、どれだけすばらしい表現活動が行われようと、
ほとんどの場合にそれは、何かの手段でしかない。
それ自体が目的になってない。
いや、でもこれは当たり前のことです。
主張っていうのは目的があってやるべきだし、何か伝えたいことがあるからこそ、小説でも絵でも音楽でも発表するのでしょう。
だから、本来ならこんなこと、「これは傲慢である」なんていう必要はないどころか、意味不明でもあります。
しかし、私は納得いかない。
つきつめれば、単にそれだけのことなんですよね。
自分自身、私が納得できないだけ。
読み直してみると話しは脱線しまくりで、何いってるのか分からなくなってきたのですが、でも納得いかないんですよ。
主張やら表現やらが、それ自体目的ではなく、他の設定された目的のための手段として利用されているというのが、
とてもとても、
もう耐えられないような、
そんな中二病まんさいな、
耳を塞ぎたくなるというか、
もう分かったから黙っていてくれとでも言いたくなるような、
そんな感じに納得いかないんです。
ええ、ただ自分自身が納得できないだけなんです。
というよく分からないお話でした。
そして、こうして主張することこそ傲慢なんです。
きっと、こうやって主張するというただそれだけのために、このブログを書いたわけじゃないんです。
どうせ、さっき書いた優越感とか、
なんか発表することに対する快感とか、
とても気持ち悪い、なんか自分自身を特別なものにみせるという目的のためにコレを利用しているだけなんです。
と、先回りして突っ込むことが、傲慢なんです。
と、言ってしまうことが傲慢なんです。
と、何回も書いていくのが傲慢なんですと書いたことが傲慢なんです
はい。終わりにしましょう。
はい。
はい。
はい。
ちゃんちゃん。
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