日記
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この前、モノノ怪を見直しているという日記を書いたのですが、
その中で、一般的な現象であるはずの妖怪現象が、なぜに個人的な恨みを原因として生まれているような描写がなされているのか、
それが分からない。
本とか読まないと。
とかなんとか。
書いた覚えがあるのですが、
このたび、なんとかかんとか、一応の理由付けができましたのでここで自己満足に彩られた駄文でも書こうと思います。
ずばり、妖怪と物の怪とは別の現象なのです。
・・・・・・はい、まあ、この業界が好きな人とかにとってみれば、自明の理だと思いますが、いちおうそういうことですよ、ということで一つ。
つまり、物の怪というのは、その名前が表しているとおり、『物』の怪なわけです。
物。
ここでいう物とは、身近にある物のことです。
一般名称としての物の名前ということではなく、たとえば私の目の前にあるパソコンやら、ヘッドフォンやら、そういう物体としての物のことです。
で、これが化けるわけです。
それが物の怪ということなのですが、
ということはですよ?
ということは、この物の怪というのは、一般化された現象ではなく、個人的なごく限られた範囲内で起こる現象ということになるます。
だって物の怪というのは、その『物』自体が問題となっているのですから。
みなさんの目の前にあるその物が化けるわけですから、ここに一般化が入り込むわけがないのです。
逆に、個人的な現象が原因となります。
その物の持ち主の強い思い。
憎しみだとか、
死に切れない思いだとか、
そういう個人的な原因が、物の怪をつくると、つまりはそういうことになるわけです。
こういう意味で、物の怪と妖怪は違います。
妖怪はあくまでも一般化された現象であって、個人的な恨みが関係しているということは、ありません。
妖怪自体には、そういうものがありません。
ですが、物の怪にはあります。
そういう違いです。
で、この考えを推し進めていくと、二つが発生した時期というのは、物の怪が先で妖怪があとだと思うのです。
一般化されるにはやはり知的文化の発達とちょっとした出版業界の成立を見なければ、全国一律の一般化された妖怪現象なんておこらないでしょう。
まずはじめは物の怪。
身の回りの物が化けるという意識が村人などにはあった。
それが時代がうつるにつれて、全国で同じような現象があるのが知れ渡り、それに一般化された名前がつけられ、妖怪現象へと昇華されていった。
もしくは、一地方の一物の怪にすぎなかったものが、本で出版されることによってそのまま全国に知れ渡り、一般化され、妖怪へと昇華されていった。
と、ちょっと強引なところがありますが、そのような仮説もたてられるのではないかと思いました。
とすると、妖怪も根っこの部分では個人的な原因を元にして生まれたということにもなるかもしれませんね。
定義が一般化された集団幻覚なのだとしても、
その根っこにあるのが物の怪で、物の怪は個人的な原因で生まれれるのだとしたら、妖怪は究極的には、個人的な側面をもっているのかもしれません。
とまあ、これは蛇足ですが、総括すると、
1、アニメの「モノノ怪」というのは、その名のとおり妖怪ではなく物の怪のほうを題材にしていた。
2、物の怪とは一般化された現象ではなく、ごく限られた範囲で妥当する、個人の恨みなどを原因として発生する現象である。
3、ということは、アニメの中ででてくる、個人的な経験やら意思と密接に関連して化物が登場するというのも、なんら問題はない。
という結論に達することができるのだと思います。
とまあ、長々と書きましたが、これはつまるところ柳田国男先生の妖怪の定義をもとにして考えたことでして、ぶっちゃけ真実は、妖怪だって個人的な恨みをもって発生するとかいう結論だってあるわけです。
ですが、こういうのをアレコレ考えるのは楽しいのでよしとしましょう。
頭の体操というか、
民俗学やら妖怪の話しは、ほとんど駄洒落といいますかこじつけといいましか、そういうのをもってしても考えられるのでけっこう好きです。
本格的に学問としてやるならば、資料に基づいてやらなくてはいけなかったり、永遠と歩き回って蒐集しなくてはならないのでしょうが、素人がアレコレ考える分には別にいいのではないでしょうか。
楽しいですし。
妄想ですし。
妄想は得意ですし。
そんなこんなで。
終わりにしましょう。
こういう話をしていると注意が必要ですけどね。
そして、こういう話をここまで読んだ貴方にはさらに注意が必要ですけどね。
・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・
・・・・
・・
貴方の後ろにいるのは誰ですか?
とかなんとか。
その中で、一般的な現象であるはずの妖怪現象が、なぜに個人的な恨みを原因として生まれているような描写がなされているのか、
それが分からない。
本とか読まないと。
とかなんとか。
書いた覚えがあるのですが、
このたび、なんとかかんとか、一応の理由付けができましたのでここで自己満足に彩られた駄文でも書こうと思います。
ずばり、妖怪と物の怪とは別の現象なのです。
・・・・・・はい、まあ、この業界が好きな人とかにとってみれば、自明の理だと思いますが、いちおうそういうことですよ、ということで一つ。
つまり、物の怪というのは、その名前が表しているとおり、『物』の怪なわけです。
物。
ここでいう物とは、身近にある物のことです。
一般名称としての物の名前ということではなく、たとえば私の目の前にあるパソコンやら、ヘッドフォンやら、そういう物体としての物のことです。
で、これが化けるわけです。
それが物の怪ということなのですが、
ということはですよ?
ということは、この物の怪というのは、一般化された現象ではなく、個人的なごく限られた範囲内で起こる現象ということになるます。
だって物の怪というのは、その『物』自体が問題となっているのですから。
みなさんの目の前にあるその物が化けるわけですから、ここに一般化が入り込むわけがないのです。
逆に、個人的な現象が原因となります。
その物の持ち主の強い思い。
憎しみだとか、
死に切れない思いだとか、
そういう個人的な原因が、物の怪をつくると、つまりはそういうことになるわけです。
こういう意味で、物の怪と妖怪は違います。
妖怪はあくまでも一般化された現象であって、個人的な恨みが関係しているということは、ありません。
妖怪自体には、そういうものがありません。
ですが、物の怪にはあります。
そういう違いです。
で、この考えを推し進めていくと、二つが発生した時期というのは、物の怪が先で妖怪があとだと思うのです。
一般化されるにはやはり知的文化の発達とちょっとした出版業界の成立を見なければ、全国一律の一般化された妖怪現象なんておこらないでしょう。
まずはじめは物の怪。
身の回りの物が化けるという意識が村人などにはあった。
それが時代がうつるにつれて、全国で同じような現象があるのが知れ渡り、それに一般化された名前がつけられ、妖怪現象へと昇華されていった。
もしくは、一地方の一物の怪にすぎなかったものが、本で出版されることによってそのまま全国に知れ渡り、一般化され、妖怪へと昇華されていった。
と、ちょっと強引なところがありますが、そのような仮説もたてられるのではないかと思いました。
とすると、妖怪も根っこの部分では個人的な原因を元にして生まれたということにもなるかもしれませんね。
定義が一般化された集団幻覚なのだとしても、
その根っこにあるのが物の怪で、物の怪は個人的な原因で生まれれるのだとしたら、妖怪は究極的には、個人的な側面をもっているのかもしれません。
とまあ、これは蛇足ですが、総括すると、
1、アニメの「モノノ怪」というのは、その名のとおり妖怪ではなく物の怪のほうを題材にしていた。
2、物の怪とは一般化された現象ではなく、ごく限られた範囲で妥当する、個人の恨みなどを原因として発生する現象である。
3、ということは、アニメの中ででてくる、個人的な経験やら意思と密接に関連して化物が登場するというのも、なんら問題はない。
という結論に達することができるのだと思います。
とまあ、長々と書きましたが、これはつまるところ柳田国男先生の妖怪の定義をもとにして考えたことでして、ぶっちゃけ真実は、妖怪だって個人的な恨みをもって発生するとかいう結論だってあるわけです。
ですが、こういうのをアレコレ考えるのは楽しいのでよしとしましょう。
頭の体操というか、
民俗学やら妖怪の話しは、ほとんど駄洒落といいますかこじつけといいましか、そういうのをもってしても考えられるのでけっこう好きです。
本格的に学問としてやるならば、資料に基づいてやらなくてはいけなかったり、永遠と歩き回って蒐集しなくてはならないのでしょうが、素人がアレコレ考える分には別にいいのではないでしょうか。
楽しいですし。
妄想ですし。
妄想は得意ですし。
そんなこんなで。
終わりにしましょう。
こういう話をしていると注意が必要ですけどね。
そして、こういう話をここまで読んだ貴方にはさらに注意が必要ですけどね。
・・・・・・・・・・・
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・・・・
・・
貴方の後ろにいるのは誰ですか?
とかなんとか。
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